社長と社員のふたりごと#134
社長のひとりごと
暑い毎日が続いていますが、みなさんはどのようにお過ごしでしょうか?あまり水分をとらない私でさえ、冷たい飲み物が欲しいと思うほどのうだるような暑さにがいつまで続くのかと思ってしまいます。この暑さでも道外からの方々は「涼しい」と言われ、転勤してきた方たちは北海道気候の体質になってしまったと口をそろえておっしゃっています。つまり、勤務満了にてあの暑苦しい本州に帰ることは想像もできないというか、身体が適応しないのではとの話でした。
寒ければ着る物を増やして我慢する。暑ければたくさん、飲み物を飲み、冷房の温度調整をして我慢する。あなたはどちらの我慢の方が楽だと思いますか?それも半年後には反対の環境気温になり、「寒い、寒い」と言い始めるのです。どちらにせよ文句をいいながらも春夏秋冬、元気に暮らすことが可能であれば『健康である』ことに感謝です。
社員のひとりごと
今回のひとりごとは配達部門 佐藤 です。
引用:昭文社発行 地図で読み解く初耳秘話北海道トリセツ
誰もが知る酒ブランド、サッポロビールとニッカウヰスキー。日本有数の銘酒が生まれた背景には風土と大規模農業の歴史があった。
ビールとウィスキーはどちらも麦芽(モルト)を原料とする酒。大麦栽培が盛んな北海道で有名ブランドが生まれたことにあまり不思議はないかもしれない。しかし会社が大きく育ったのにはさまざまな要因があった。順を追ってその歴史を見ていこう。サッポロビールは北海道開拓の歴史と深くかかわりあいながら成長した会社だ。明治初期、開拓使は産業の育成のために官営工場を設立。1871(明治4)年から10年弱のあいだに30以上の工場がつくられた。製品は味噌、醤油、生糸など多岐にわたりこのなかにビールも含まれていた。当初ビール工場は東京につくり試験醸造に成功したら北海道へ移す計画だった。しかし低温で発酵・熟成させるビールの製造には氷が不可欠。開拓使官吏の村橋久成は「氷雪の豊かな北海道に最初から建設すべき」と建議し計画を変更させた。1876(明治9)年札幌に開拓使麦酒醸造所が完成。これがサッポロビールの始まりである。北極星を表す商標の星印は開拓使の旗章が由来だ。
道庁設置後の1887(明治20)年に民営化。渋沢栄一浅野総一郎らがこれを買収し「札幌麦酒会社」を設立した。1903(明治36)年に東京工場が完成。宣伝をかねてビアガーデンを開業すると札幌麦酒は製造量を20%以上伸ばし業界トップに踊り出た。1906(明治39)年には日本麦酒・大阪麦酒と合併し日本最大のビール会社「大日本麦酒」となる。戦後大日本麦酒は日本麦酒と朝日麦酒に分割され札幌の名は消えてしまう。
日本麦酒の出した新ブランドが低迷するなか日本麦酒の独占市場だった北海道に麒麟ビールが進出。関係者を震撼させた。サッポロビール復活を求める声が高まり札幌工場創業80年となる1956(昭和31)年北海道限定でサッポロビールを復活販売。これが好調だった為翌年には全国で復活。そして1964(昭和39)年には社名を日本麦酒から「サッポロビール」に改称した。
ニッカウヰスキーの前身「大日本果汁」の創業は1934(昭和9)年。創業者の竹鶴政孝はウィスキーの本場スコットランドで修行を積んだあと寿屋(現サントリー)を経て独立。スコットランドと似た冷涼な気候適度な湿度良質な水スモーキーな香りの元となる」ピート(草炭)などを備えた余市が創業の地に選ばれた。ウィスキーは熟成に何年もかかるためすぐに売ることができない。資金作りのため余市特産のリンゴでジュースを作ったが当時ジュースは一般になじみがなく売れ行きは悪かった。1940(昭和15)年ついに完成したウィスキー第一号は「大日本果汁」略した「ニッカ」の名で世に送り出された。戦時中は酒類販売の統制戦後は大衆向けの粗悪なウィスキーの流行と逆風が続いたがウィスキー専門メーカーとしての誇りは捨てず社名を「ニッカウヰスキー」に変更。筆頭株主の朝日麦酒(現アサヒビール)の協力も受けながら着実に売り上げを伸ばしサントリーに比肩するメーカーへと成長していったのである。
感想
北海道は食の宝庫とよく耳にしますが食べる物だけでなく飲料にも多大な影響があることに改めて知る事ができました。また北海道だからこそ生産する農地の確保だったり気候(季節)も生産するうえで重要な要因である事。
そして多くの方々がビール・ウィスキーの製造生産に携わっていること。渋沢栄一さんも関わっていた事も初耳でした。
近年夏の猛暑日・台風・大雨・冬の大雪・低温等気候も変わりつつある現代この先の食物に悪い影響が出なければよいのですが。